蒔苗忠次郎 〜その弐〜
うちのバッチャの話をしすぎましたが、
そもそもなぜうちのバッチャはたくさん蒔苗さんの作品を所蔵していたのか。
祖母がまだハタチくらいだった頃、県職員として弘前市の工業試験所に入社。
りんご課とかいう所に配属され、
すぐ隣の部署が窯業課、つまり津軽焼を再興させようという課だったらしい。
当時、弘前第二中学校近くに工業試験所はあり(私が二中在学中の頃もまだありました)そこに大きな登り窯があったそうです。
工業試験所でのエピソードも多々あるので、その話はまた工業試験所編でお話しする事にしよう。
蒔苗忠次郎さんはどんな人だったのか。
(ここにきてやっと本題らしい本題!)
バッチャ曰く、
『割と年取る前に亡ぐなったんだ』
『良い人だけど、酒飲みでサァ〜』
と。
唯一のお弟子さんである畑野謙一さんもおっしゃっていたが
『67〜8歳くらいで亡ぐなったんでネがなぁ〜』
『厳しい人だった!酒もよぐ飲む人だったナ!』
と、畑野さん。
とにかくお酒が好きで、畑野さんもよくお酒に付き合わされたそうだ。
どうやら酒飲みという点は有名らしい。
(畑野謙一さんについてもまた改めて!)
対照的にうちのバッチャは結構可愛がられたそうで、
『むっちゃん!むっちゃん!』
といつも声を掛けられ(バッチャの名前は"むつ"さん)
窯から出したB品の陶器やらお皿やら貰ってたんだって。
『優しい人だったよ〜!ニコニコニコニコして!』
とバッチャは言う。
弘前市立図書館にある
美を求める道 〜成田道夫遺稿〜
でも、
開雲堂主人が色々と説明し、蒔苗氏はすみのほうでニコニコしていた
と記されている。
バッチャはもしかしたら、そんな蒔苗さんの事を好きだったのかもなぁ…なんて考えながら、
今日も蒔苗さんのカップでコーヒーを飲む。