信政と悪戸焼 〜信政が遺したもの〜
(前回までのあらすじ)
昔の世界からの使徒であるこの可愛らしい少年は
幼少期の津軽信政公であった!
なんとも賢く、礼儀のキチッとしたこの子が興味を示した茶碗…
果たして…!!
信政 (以下.政)
『これは悪戸焼で間違いないよ!後にオラが江戸から呼び寄せた平清水三右衛門が一生懸命試行錯誤して作った悪戸焼だよ!』
※正確にはこの悪戸焼は大正期の物で、藩政期のものではありません。
焼.
『ひらしみずみうえもん?その人が悪戸焼を?』
政.
『うん、どうやらオラは大人になってから様々な職人を江戸から呼び寄せて、津軽の殖産興業に力を入れて今の城下町の礎を築いたんだ!』
焼.
『聞いたところによると、陶工だけではなく、織物や漆器、その他様々なジャンルの職人を江戸から100人以上招聘したと聞いてるよ!』
政.
『実は他にもね、植林に力を入れたり、城下町の整備をしたり、礎をより強固にしたんだ!』
…この後、信政公は後々の活躍、そして晩年の失態と失政についても包み隠さず話してくれた。
信政の時代には4万5千石だった石高を30万石までに成長させる。
※1石=お米100升分(1000合)
※1石=田んぼ1反分(1反=360坪)
信政の成長戦略は、新田開発だけではなく、治水工事、山林制度の編成、植林、検地、家臣団の郊外移住(城下町形成)、養蚕、製糸業、織物、紙すき、陶器(津軽焼き)、漆器(津軽塗り)、薬用人参、藩営牧場など多岐にわたった。また、役職や法令の整備にも努めた。
しかし、飢饉が津軽を襲う。
1695年、春先からの天候不順に伴い、共作が予想されていたにも関わらず、家臣たちは前年産米を既に輸出してしまっていた。
買い戻しを迫ったが、当然飢饉真っ只中の藩内に米の在庫はなく、飢饉に拍車をかけた。
結果、10万人を超える餓死者を出したと言われている。
(7代藩主 信寧時代にはかの有名な天明の大飢饉が津軽藩を直撃している)
しかしながら信政の残した功績は素晴らしいものがあり、今の津軽弘前に残る殖産興業の礎を作ったと言っても過言ではない。
…何だかお堅い話になってしまったが、津軽の名君『津軽信政』を知っておいて損はない!!
という事ですね!
さてさて!
津軽藩についてのお話はしばらくお休み…。
次回からは陶器についてのお話が続きます!
お楽しみにっ