津軽焼ライター 津輕 焼次郎ブログ

津軽焼にまつわる全ての人のハナシっコ

釉薬の魔術師

釉薬の魔術師とは畑野さんの為にある言葉だと思う。

 

まだ言えないが、未だかつて誰も手を出した事のない釉薬を作ろうとしている。

 

現に小川原湖のシジミ貝を使った釉薬を作り、

それはそれはとても宇宙的な雰囲気を醸し出している。

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釉薬のかかり具合に難があるので、これはB品扱いなんだけど、

これが何とも良い感じである。

 

海鼠釉(以下.ナマコ)はナマコで蒔苗さん譲りの絶妙な風合いを出すし、そのバラエティー性には驚かされる。

 

そうそう、うちのバッチャ(最初の頃のブログに登場)が言ってたんだ。

 

『あの、ガードマンやってら人はいっつも土捏ねたり薬混ぜだりしてらんだよノォ〜!アレ、あの人こしたに良い皿っコ作るようになったべノォ〜…!』

 

そう、若き日の畑野さん(試験場時代はガードマンの仕事もやっていた)は来る日も来る日も土を捏ね、釉薬の調合をやっていたのだ。

 

それが血となり肉となり、今の畑野さんを形成している。

 

畑野さんの作品に魂を感じるのは、

そのせいなのかもしれない。

 

次回は

工業試験場よもやま話  編

です!

お楽しみに!!

 

 

『手仕事は命懸け』

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畑野さんのサロン(工房)にお邪魔するのは今回で2回目。

小川原湖を見下ろすとても良い場所に窯はある。

 

前回は2月の下旬に訪ねたのだが、

雪の白と空の青にキラキラと反射した小川原湖の水面は、とても幻想的だった。

 

畑野さん曰く

『春は桜のトンネルがとても綺麗だぞ』

との事。

新緑の緑が活き々と芽吹いた、そんな時期に今回はお邪魔した。

 

『おーぅ!よぐ来たナ!』

畑野さん御夫妻はとてもエネルギーに溢れていて、それでいて物凄く人間味の溢れる御夫妻だ。

 

畑野さんの工房は宝物に溢れている。

畑野さんの経験もまた、宝物そのものだ。

畑野さんには烏滸がましくて言えないが、

畑野さんと私の好き嫌いは似ていると思う。

畑野さんの作品には妥協はない。

畑野さんの師匠がそうであったからだ。

畑野さんは言う

 

『手仕事は命懸けだ』

 

と。

 

『それ』

には、

畑野謙一という人間のエネルギーと魂が宿っている。

 

次回は釉薬の魔術師』編です!

 

 

10日ぶりでゴメンなさい

皆様、

前回の投稿から10日も過ぎてしまい

『あー、やっぱりアイツは三日坊主か〜!』

とか、

『やっぱblogなんてムリムリムリ〜♪』

とか、

いろいろ憶測があったかも知れません…笑

 

実は地元弘前に帰っておりまして、この度たんまりとネタを集めておりましたっ!

 

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津軽焼を知る数少ない方々に実際にお会いし、とても貴重なお話しを聞いてきましたよ〜!

 

そんな貴重なお話しを包み隠さずお伝えしていくのがこのblog!!

(とは言えプライバシーは十分に厳守します…笑)

 

最初に登場するのはもう皆さんの間でもお馴染みの畑野さんです!!!

乞うご期待っ!!!!

信政と悪戸焼 〜信政が遺したもの〜

(前回までのあらすじ)

昔の世界からの使徒であるこの可愛らしい少年は

幼少期の津軽信政公であった!

なんとも賢く、礼儀のキチッとしたこの子が興味を示した茶碗…

果たして…!!

 

 

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信政 (以下.政)

『これは悪戸焼で間違いないよ!後にオラが江戸から呼び寄せた平清水三右衛門が一生懸命試行錯誤して作った悪戸焼だよ!』

※正確にはこの悪戸焼は大正期の物で、藩政期のものではありません。

焼.

『ひらしみずみうえもん?その人が悪戸焼を?』

政.

『うん、どうやらオラは大人になってから様々な職人を江戸から呼び寄せて、津軽の殖産興業に力を入れて今の城下町の礎を築いたんだ!』

焼.

『聞いたところによると、陶工だけではなく、織物や漆器、その他様々なジャンルの職人を江戸から100人以上招聘したと聞いてるよ!』

政.

『実は他にもね、植林に力を入れたり、城下町の整備をしたり、礎をより強固にしたんだ!』

 

…この後、信政公は後々の活躍、そして晩年の失態と失政についても包み隠さず話してくれた。

 

 

信政の時代には4万5千石だった石高を30万石までに成長させる。

※1石=お米100升分(1000合)

※1石=田んぼ1反分(1反=360坪)

 

信政の成長戦略は、新田開発だけではなく、治水工事、山林制度の編成、植林、検地、家臣団の郊外移住(城下町形成)、養蚕、製糸業、織物、紙すき、陶器(津軽焼き)、漆器(津軽塗り)、薬用人参、藩営牧場など多岐にわたった。また、役職や法令の整備にも努めた。

 

しかし、飢饉が津軽を襲う。

 

1695年、春先からの天候不順に伴い、共作が予想されていたにも関わらず、家臣たちは前年産米を既に輸出してしまっていた。

買い戻しを迫ったが、当然飢饉真っ只中の藩内に米の在庫はなく、飢饉に拍車をかけた。

結果、10万人を超える餓死者を出したと言われている。

(7代藩主 信寧時代にはかの有名な天明の大飢饉津軽藩を直撃している)

 

しかしながら信政の残した功績は素晴らしいものがあり、今の津軽弘前に残る殖産興業の礎を作ったと言っても過言ではない。

 

…何だかお堅い話になってしまったが、津軽の名君『津軽信政』を知っておいて損はない!!

という事ですね!

 

さてさて!

津軽藩についてのお話はしばらくお休み…。

次回からは陶器についてのお話が続きます!

 

お楽しみにっ

謎の少年 〜信政が遺したもの〜

今週は強烈な偉人の御二方にお話が聞けてとても充実しているのですが、なんだかグッと疲れたのは気のせいでしょうか…笑

 

瓦師、理右衛門さんからの音沙汰はありません。笑

祖父である信枚さんはいつの間にかあの世 に戻られたようですし…。

 

まぁ、ゆるりと四代目藩主、信政公について話しましょうかね〜!

 

 

『おじちゃん、おじちゃん』

 

ん?どこからか子供の声が…。

 

『おじちゃん、オラの事を知りたいんだって?』

 

(エボシを被った可愛い少年…こ、この方は!!)

 

焼.

『もしかして、坊っちゃんは…信政公?!』

信政(以下.政)

『そうだよ!オラは今勉強中!儒学とか兵学とか、師学についていろいろと勉強しろって叔父様から言われているんだ!』

 

(あっ、そうか!信政公の坊っちゃんはまだ幼いから叔父である信英が補佐官として藩の行政を代行しているんだった!)

 

焼.

『あ、あの…信政さんに聞きたい事があるんだけど…いいかな?』

政.

『勉強しながらで良ければ!なんでも聞いて!あ、あと、おじちゃんの方が年上なので、呼び捨てで結構ですよ』

焼.

『(なんとまぁ出来上がった子なんだ!!) あっ、ありがとう!それじゃあ、信政君と呼ばせていただきます…(恐縮ッ)』

政.

『あと、今までオジサンばっかりの登場だったでしょ?だから今回は幼少期のオラが代わりに行けって事になって…。安心して!未来の事は予め勉強してこの巻物に記してきたから!』

焼.

『(代打にしては出来過ぎじゃないかこの子は!!)信政君みたいな子だと本当に助かるよ…もう次回からも信政君で…』

政.

『じゃあ早速!!おじちゃんが今やってるのは津軽焼のブログなんだよね?じゃあこの巻物に書いてある悪戸焼っていうものについて教えてあげる!』

焼.

『待ってましたー!!!!ありがとう!是非とも色々と聞かせておくれ〜!あっ!よかったらお煎餅でも食べながら…』

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政.

『ありがとう!…ん?これってもしかして!悪戸焼じゃない?!おじちゃん、もっとよく見せてくれる?』

 

 

興味津々の信政君!

果たしてこの器(私が普段、柿ピーやら煎餅を入れてる茶碗)は悪戸焼なのか!?!?

次回、いよいよ悪戸焼の真相に迫る!

 

 

落雷がなければ青森県高岡市だった?!

いやー、コテコテの関西人だったね、理右衛門さん…。

圧倒されちゃいました。

 

さてさて、理右衛門のおっさんから全く連絡がこないので、今のうちに弘前市についてもお話ししたいなと思ってる次第なんですが…

 

 

『オメだぢ、ワっとば忘れればまねや!!』

 

また天の声が!!

今度はかなり訛っていますね〜!

誰ですかね?!笑

西北五地区のオヤンズ(オヤンズ=津軽弁でおっちゃん)でしょうか?

 

『なにホンズね事喋っちゃズャ!ふったすけでマラァ!』

※ふったすける=津軽弁で 叩く・殴るの意味

 

あ!!これはもしや…二代目藩主信枚公ではありませんか!!!失礼しました!

 

焼.

『これはこれは大変失礼致しました!ちょうどさっきまで信枚公のお話をさせて頂いてました!』

信枚 (以下.枚)

『オメ、ワゲモノだのに年寄りさ興味あるみてだな!理右衛門がら聞いだネ!珍しワゲモノだな!』

焼.

『いえいえ、まだ全然自慢できる程知識もないんですが…。ところで信枚さんは私達の故郷である弘前市を作った人なんですよね!スゴイっすマジで!』

枚.

『ンだ!!ワのオヤジ(為信)ばし、ふゅーちゃーされるばってよ!ンデねんだ!ワ、たげ働いだネ!まさに身を粉にして働いだジャ!オメだげだ!そスて喋ってけるの!オメいいやづだ!ながながのワゲモノだ!オメだばこの弘前っとば…』

焼.

『ちょ、ちょっと信枚さん!!!!あとでちゃんとハナシ聞きますのでとりあえず弘前の事について教えてもらえますか?笑』

枚.

『ヤメグ!!ワ、ついつい喋ってまるズャ!ンダ!弘前の事聞きてんだべ?しかへらァ〜!なんでも聞がなガ!』

※めやぐ=すまない、すまん

※しかへる=教える

焼.

『宜しくお願いします!あの〜、聞いた話では弘前は昔、高岡だったと聞きましたが』

枚.

『ンダ!昔は高岡藩だったんだネナ!んだばってョ!雷落ぢで城全部焼げでまってャ、この雷、もしかセばワの母親(為信の正室=阿保良)の姉の祟りでネが!って師匠の天海のジサマどハナシたんだネナ!天海のジサマの事知りてんだバ、ウィキペデア見ろ!』

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/天海

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(この人が天海さん。明智光秀という噂も…)

 

焼.

『それで、天海さんと話してどうなったんですか?』

枚.

『天海のジサマゃ、高岡だば縁起良ぐネ〜ハンデ、弘前さすべし!って言ったんだ。ワも、んだ!そっちの方が今風でねが!ってなってや!弘前さしたんだ!』

焼.

『うわー!!!!それじゃ、その時雷落ちてお城が焼失していなければ…高岡市になっていた可能性もあるんですね!!』

枚.

『どんだ?オメだぢだば、弘前の方がいいがぁ?高岡のほうがオシャレだが?』

焼.

『私たちはやっぱり弘前っていう名前が好きですね〜!!響もいいし、インパクトもあるし、弘前大好きっすよー!』

枚.

『ちなみにヤ、青森も作ったのワだんだ!!』

焼.

『ええええー!!!信枚さん!めっちゃ凄い!!ただの訛ってるジサマでねがったんですね〜!』

枚.

『バガこの!笑  あどョ、ワの嫁っコ、家康の養女だんだ!!あどョ、オナゴ(側室)は石田三成の娘だんだ〜!いいべ〜!あどョ……』

 

このあと信枚のオヤジと一緒に鍛治町で飲む事にしました…。

鍛治町でもボトル開けまくってかなりの人気者でした。笑

(女の子達はおそらく凄い人だとは気付いてなかったはず…)

 

 

いやー、信枚さんっ!

強烈でしたね!!!

でもこの人は本当に凄い人ですね〜!

実は焼けた天守閣、五層の大天守閣を1年2ヶ月というスピードで構築させたらしいですよ!

 

周知の通り弘前の基礎を作ったり、更には青森市まで!!

蝦夷や江戸との交易ルートを整備したのもこの人ですから功績は素晴らしいものがあります。

 

あっ!!!

肝心の津軽焼の事聞いてない!!

(また今度聞く事にしましょ…)

 

 

(次回いよいよ登場?!四代目 津軽信政!!)

 

 

大阪からの使者

さて、少し話題を変えて津軽焼の発祥について書こうかな。

正直、津軽焼は衰退し、今の若い人達の認知度はほぼ皆無と言ってもイイと思います。
現に私が津軽焼の存在を知ったのも2017年、つまり去年です。

弘前市民に聞きました。

弘前』と言えば?


『さぐら(桜)だべ〜』
岩木山だよな〜』
『まぁ…りんご?だべが?』
『ビブレ(現さくら野)の前さスタバでぎだや』
『城下町だハンデ、いいどごいっぺぇある』
『美容院多いネなぁ〜』
弘前だっきゃナンもネじゃ』

まぁ…、なんとも抽象的と言いますかその通りと言いますか…。

と、言うか、
『それ以外ナンがあったがぁ〜?』

『ワシを忘れたら困るで〜!』

…あれ?天の声が。
これは津軽焼の開祖と崇められる
大阪出身の瓦師、大塚理右衛門の声!!!

焼次郎(以下.焼)
『理右衛門さん、どうもはじめまして!』
理右衛門(以下.理)
『お前、熱心にやっとるそうやなぁ〜』
焼.
『いえ、まだ全然でして…』
理.
『その心意気っちゅうモンが大事やで〜』
焼.
『確か理右衛門さんは瓦師として弘前に…』
理.
『せやで!津輕の信枚はんから、ウチの城の瓦焼いてくれへんか〜?言われてなぁ。せやかて城が完成した後、ワシ、ニートやんけ!どないするん!言うたんよ。ほんだら、お前焼き物もやったらどやー?言うてくれましたさかい、チマチマやらしてもろてますわ〜』
焼.
『なるほど。理右衛門さんと二代目藩主 信枚公がいなければ今日(こんにち)の津軽焼は存在しなかったと言っても過言ではないんですね!』


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/津軽信枚


理.
『当たり前やないかい!信枚はんもせやけど、四代目の信政くんは相当苦労しはったみたいやで〜!』
焼.
『信政公のお話しも少し聞かせてもらえませんかね?』
理.
『アホか!ワシかて暇ちゃうんやで!あん時稼いだカネでこれから阪神競馬場行かなアカンねん!信政クン紹介したるから待っとってや〜!LINE送るさかい〜』
焼.
『あっ!理右衛門さん!理右衛門さーん…!』

理右衛門さんも相当に気合いの入ったおっちゃんだが、それ以上に気合いが入った四代目藩主、津軽信政についても知りたくなった!
ひとまず、理右衛門のおっさんからのLINEを待つことにしよう。


※勿論会話はしてませんが、内容は事実です

※競馬行くとか、LINEも嘘ですが内容は事実です

ちなみに、津軽信枚は津軽藩でも歴代1.2を争う美男子だったそうだ。


津輕の殖産興業編 に続く。